無知蒙昧なセンテンス

その辺の社会人が色々なものの言語化を試みる場です。

3本目の話がやけに長いサザエさんみたいな記事

こんにちは、気づけば年も明けましたね。まあね、今年も今年とてね、生活の方をやっていきたいと思いますけどね。

今回の記事は普段の記事だと前置きに書くような短いやつをいくつか投下します。なので、今ここで書いている内容は前置きの前置き、ということになりますね。マトリョーシカ感ある。前置きに合いそうなことは割と思いつくけど、一つの記事にするくらいのボリュームのテーマはあんまり思いつかないというね。TwitterでOKとか言わない

というわけで早速本題の前置きに入っていきましょう(?)

 

 

祝日の話

丁度正月なのでこの話から。結論から言うと、正月休みの一週間よりゴールデンウイークの一週間の方が嬉しい、ていう話。(社会人の休みの感覚で話すと、)日本の祝日の中で正月だけ異様に堅苦しくないだろうか。お盆もやや伝統感があるが、正月とは比べ物にならない。実質正月休みだけ異様だと思う。大掃除、年越しそば、初詣、あけおめのやり取り、年賀状、定番となっているいくつかのテレビ番組、etc...これだけ休み方の規範がはっきりと決まっている休みが毎年必ず存在するのはどうだろうか。まあゴールデンウイークに休めないような仕事をしている人からしたらバッシング必至だし、そういう人にとっては逆に正月の方がはるかに嬉しいかもしれない。ただ言いたいことはそこではなくて、休み方に同調圧力がここまで強くかかっているのは窮屈過ぎない?ってこと。別に国をあげて仏教や神道を信仰しているわけでもないし、初詣もしたい人がすればいいとは思う。まあとか言って何だかんださっき初詣してきたけど。でももうちょっと正月も人それぞれいろんな過ごし方をする空気が出てくるといいよなあとは思う。今のところ海外行くか国内にとどまるかぐらいの選択肢しかないし、国内のとどまり方はほぼワンパターンだしね。

 

無駄の話

時間の無駄、という表現がある。○○するのは時間の無駄でしょ~、てのはよく聞くフレーズだ。今まで特に疑問を抱くことなくこの言葉を聞いてきたし使ってきたが、最近ふと疑問を抱くようになった。いや無駄ってなんだよ、と。最近は別に本人が納得してるなら無駄でいいだろ、と思ってしまう。そもそもどうせ100年弱で死ぬんだし、死んだら自我もなくなるわけで、だったら極論生きてるうちに何をしても無駄じゃないですかね。咳をしても一人。何をしても無駄。似てるな(似てない)。何をしても無駄だったら、逆に言えば何も無駄じゃないとも言える。捉え方の問題。何をしても無駄だし、何も無駄ではない。奇妙だが両方とも正しいと思っている。だから、特定の行動が無駄っていう考え方にはちょっと首をかしげてしまう。

 

言語化の話

これは結構このブログに一貫するテーマの一つでもあるんだが、思考の言語化についてである。個人的に、思考に限らず言語化という行為はかなり難しくて、でも同時に決して諦めてはいけないような気もしていて、だから時には苦労しながら言葉を吐き出してブログという形でアウトプットをしている。ブログでアウトプットするのは自分の中で一度完結させたものを人に見てもらうことでそこから新たなる ’続き’ が始まるかもしれないからだ。もう一つブログを使う理由として、ブログというコンテンツはSNSの中で最も一人語りが許容される場だと思っているからでもある。

で、言語化の何が難しいかという話に戻ると、完全に思考を文字に起こしきることがほぼ不可能なことだ。どこかの誰かが言葉を知ることでその土地の文化を知ることが出来ると言っていたように、言語は文化を作り出す大きな要因になっていると思う。それは逆に言えばある言語圏でしか生み出されない文化があるということで、もっと言うと文化と深いつながりのある思考は言語によって縛られるということである。 こういう書き方をしてしまうとそもそも思考を母国語でする以上思考自体の広がりも有限でかなり制限されているという意味合いが強く出てしまったかもしれない。それももちろんあると思うが、それ以上に思考は言語化することでさらに狭まってしまうという点を強調しておきたい。思考を言語化するのが難しい時点でそれは言葉での表現を超えた内容を考えている可能性があって、これ日本語で上手く当てはまらないなあといった内容のことを考えることはちょいちょいあると思う(ここは人によるかもしれん)。だから思考自体が制限されている可能性は無視して、ここでは言語化することでさらに狭まってしまう話をしたい。

言語化をすることで、どうしても情報量が落ちてしまう。「言葉にするとなんか陳腐」なんて表現はまさにこのせいだと思う。すごい時間をかけて何とか言葉を吐き出しても、情報量が落ちたものしか発信できないし、100%を伝えきることはできない。さらに受け手が文から内容を受信する時に、受け手側の個性とか基質を経由して落とし込むからそこでまた情報が落ちる。おそらく、最初思考していたときからは比べ物にならないほど情報がそぎ落とされて受け手の脳に届いている。

でもだ。それでも言語化を諦める気はない。それがたとえ陳腐なものでも、全くスマートじゃなくても、絶対に諦めずに発信したい。そしてそれは自分の中だけで完結したくないし、陳腐な情報になったとしても、残り数%の部分で誰かの思考に響く可能性を見捨てたくはない。さらにその誰かから発せられる思考の数%に感情を抱きたい。そうやって紡がれるコミュニケーションは、きっととても、美しいから。

別に文字に起こしてコミュニケーションする必要もなくて、これは会話でも同じだと思っている。会話でも陳腐で泥臭い言語化を諦めない。そうやって生きていたい。

 

 

とまあ、新年早々グダグダな記事から始まりましたが、本年も誰かがたまに読んでくれることをひっそりと期待しながら更新していきますので、よろしくお願いします。

P.S. 感想とかなんかしらの反応とかがあったら言ってくれると喜びます。