無知蒙昧なセンテンス

その辺の社会人が色々なものの言語化を試みる場です。

月から戯言を

こんにちは、主観です。間違えました、さみっとです。
今回は自分が6年間通ってきた大学(※)について思うことをつらつらと書いていこうと思います。はっきりといえば嫌いな部分を言語化しようという試みです。当時の視点で振り返ると言うよりは、今の価値観・感覚で6年間を概観する感じです。読んで不快に思われる方がいるかもしれませんが、ご容赦ください。

書く前に自分の6年間をざっくりと分けると、最初の1年半は前期過程で広く教養を学ぶ段階、そこからの1年半は後期課程で専門分野を座学や実験を通して学ぶ段階、そして大学4年から院2年までの3年間は専門分野の研究室に所属して研究を進める段階、となってます。ここで書いている内容はあくまで自分が体験した範囲であって、大学全体がそうであると断言するものではありません。
早速書いていきます。以下常態。





拝啓


この大学には進学選択という制度がある。
入学時は大雑把に文理を3種類ずつに分け、前期過程では文理の括りなく色んな講義を受けられるようになっていて途中で行きたい専攻を選ぶ、という制度である。高校時代これといって学びたい専門分野がなかった(というより勉学自体に強い興味がなかった)自分にとってこの制度はとても聞こえが良く、大学に入ってもまだ進路を迷えるし興味のある分野の講義を自由に受講できるという理由で受験することにした。もちろん肩書きとして強いことは社会的に便利だろうみたいな厭らしい気持ちもあったが。
しかしながらこの制度、必修科目が多すぎて(特に理系)色んな授業を受けるにはかなりの体力と気力を必要とするから結局そんなにリベラル・アーツをやれないという欠陥がある。勉学自体に強い興味があれば色々な分野の講義を受講して教養を深められると思うが、自分のように勉学そのものより受験競争というバトルで優位に立つことに面白さを見出していた人間にとってはなかなか難しいだろう。この時点で高校時代抱いていた幻想は崩れたのだが、それよりもはるかに深刻なのは「専門分野を選択する際、前期課程の成績順で定員が埋まっていく」ことである。このおかげで多くの学生達は点数重視になってしまい、そこにはもはやリベラル・アーツのリの字もない。ここに拍車をかける要素としてあるのが、この大学に入学する人は原則として受験競争を勝ち抜いた人しかいないということだ。勉強で競って勝つという経験は恐らくめちゃくちゃ強い感情になって根付いてしまう。自分に限らず、おそらくこの大学の多くの学生は勉強自体よりも受験競争バトルで上に立つことに楽しさを見出している。そういう人達に再び「成績」なんて概念を提示されたら確実に競争の空気で染まってしまう。勝ちを経験した人はその多くが好戦的になる。そんな中で昔と似たような戦場を用意されたら再び戦いが始まるに決まってる。しかもこの戦場は社会が好んで作り出す類の戦場だから、勝つと少しだけ社会でも勝った気になってしまうという薄気味悪い副作用もついている。
(全員が好戦的と言うわけではないと思いますが、点取り争いの空気感は間違いなくあります)


大学に入っても、やってること受験と同じぢゃん、ワラ。


この戦場の弊害は、専門分野を選択した後にもやってくる。
正確には選択する前からあるのだが、底点(;その学科に進んだ学生の中の成績の最低点)の高い学科が上で底点の低い学科が下という価値観である。本来学部学科の違いは学ぶ内容の違いだけで、そこに上下はない。だがこの大学では強くその上下意識が根付いていて、学生から人気があって入りにくい学科はすごい、定員割れしていて底割れ(;学科の定員よりその学科を志望する学生が少ないため、前期課程の成績がどれだけ悪くても単位さえ取得していれば入れる状態)している学科は雑魚、みたいな発言を平気で耳にする。本当にキモい。恐らくこの価値観は学生が進路を選択する際少なからず影響を与えているし、進路が分かれた後も「え、○○科(底割れ学科)なの?落ちこぼれじゃん笑」みたいな捉え方で人が判断されている場面はままあった。実際前期でまじめに勉強しないとろくに点数がとれないので底割れ学科と落ちこぼれには相間があるから合理的な判断だとは思うが、後期課程になってもなお前期課程の点数で判断する姿勢を見るとザワザワしてしまう。
今でこそバッサリ言い捨てているが、専攻を選択する当時の自分はまさにこの考え方に飲まれているキモいやつで、大した点数も取れてないのに自然と底割れしている学科を避けて進路希望を出していた。クソダサい。ただ、少し俯瞰して振り返るとあの環境でこの価値観に染まらずに生きていくことは自分には不可能だっただろうなという気もする。入学当初からよほど自分の軸を確立できてない限りは点数至上主義に飲まれてしまうと思う。


ここまで書いてきて自分の中でかなり整理されてきたが、一言で嫌いな部分を言うと「本来学問、及び研究は競争するものではなくそれ自体を追究することに意義があるのに、バトルするための道具として捉えられている」、ということになる。自分の場合は後期課程でも研振り(研究室に学生を振り分けるために、後期課程での成績を参照する制度)が存在し、前期課程ほど完全に成績で研究室が決まるわけではないが結局競争の空気はまるで変わらなかった。受験でさんざんバトルの道具として勉強をやってきた人が純粋に学問をやる姿勢にすぐシフトしないのは人間に慣性みたいなものがある以上仕方ないと思うが、入学して数年経っても変わらないのはどうかと思う。でもこれは学生側に問題があるというより、大学側の制度の問題が大きいんじゃないかと思う。競争意識が高くなっている集団の前に競争というエサをちらつかせているわけだし。


そして、この空気は驚くべきことに現在自分がいる研究室でも存在する。あくまで自分の研究室の話だが、純粋に研究を楽しむ姿勢はまるで見られず、論文を出すことやとりあえず成果があることが重視される節がある。さらには質より量が重視され、長時間研究することが良しとされる空気もある。点数や成績の代わりに研究の進捗や成果でバトルしている気配を感じる。これは学部でのお勉強バトル以上に滑稽だ。研究は基本的に個人単位でしているから人によって違うことをやっているのに、その違うこと同士でバトルしているから。
これも研究室だけの問題というよりは、研究にはお金が必要でお金をもらうためには成果がないといけないという構造上の問題が大きいと思う。この構造を教授やスタッフ陣がそのまま学生に押し付けてしまうと、研究もまたバトルの道具になり下がってしまう。論文や成果といった軸で見ると互いの研究が同じ土俵で比べられちゃうからバトルが勃発するのである。


本来、競争の姿勢は受験までで終わって、大学に入ってからは学問を学ぶ姿勢に移行するべきだし、大学院では研究をする姿勢に移行するべきだ。漠然と研究室に感じていた違和感について、今までは「研究は自分で新しいものを切り拓くものなのに既存の知識を学ぶ姿勢が抜けてない」からだと思っていたが、実際は「学問を学ぶ姿勢どころか競争の姿勢から抜け出してない」からなんだと思う。結局大学及び大学院では学年問わず一貫して競争する文化がしっかりと根付いているし、学年が上がってやることが変化してもこの心理的な土壌はあまり変化していないように見える。


大学に入った時から漠然といら立ちや違和感を感じていたが、それが恐らく競争する姿勢と学問を学ぶ姿勢・研究をする姿勢とのはき違えから来ていると気づいたのはつい最近のことだ。気づくのにこれだけ時間がかかったという事実はとても恐ろしいし、社会や集団の価値観の強さを思い知った。気づくきっかけとなったのは似たような価値観を持った友人との研究室の愚痴とか悩みといった雑談だった。散々互いに話しているうちに徐々に靄が消えていって、ようやく言語化できるくらいに頭が整理された。もしこういった雑談がなかったら漠然としたいら立ちの原因が何かわからないまま大学院まで卒業していたと思う。本筋とはそれるが個人でいくら俯瞰しているつもりになっていても限度があるし、それは常に自覚しないといけないなと強く思った。




「戯言」というタイトルの通り、ディスったところで状況は何も変わらない。個人でどうにかなる問題じゃないし、そもそも純粋に学問や研究をやりたい人なんてほとんどいないだろうし。言ってしまえば「大学=学問を学び教養を得る場」なんてのは理想論で、人はそんなに勉強が好きじゃないから大学の意義は社会のステータスとしての顔が主だろう。そうやって社会は回っていくし、教養なんてのはそのための仮面に過ぎない。やっぱり競争は分かりやすいし、社会も競争は大好きだからこの状況は至極自然なものに見える。それでも違和感に気づいてしまったし、それを言語化せずにはいられなかった。


草々不一


東京大学です