無知蒙昧なセンテンス

その辺の社会人が色々なものの言語化を試みる場です。

宝石の国 感想 書き殴り

以下全て個人の解釈と感情で書き殴ります。ネタバレもたくさんします。ご了承を。
ネタバレのない範囲&めっちゃ雰囲気の読後感は、「『銀河の死なない子供たちへ』の読後感とかOuter Wildsのプレイ後感に似てるなー」でした。
祈り、救い、祈られ、救われている、そんな作品だなと思いました。









人間という種の消滅(=滅亡)と個の消滅(=死)についての救いを考えた作品、であると捉えた。
最終的に無機物以外のキャラクターは皆死ぬが、ハッピーエンドだなあと感じた。

作中では人間は魂・肉・骨に分かれ、それぞれ月人・アドミラビリス・宝石として生きている。これらのうち肉に相当するアドミラビリスだけに寿命の概念があり、月人・宝石は死なない。宝石は粉々になることで自我を消失するので、記憶が不連続になることでの寿命は存在するかもしれないけど。
月人の「無になりたい」という願いを見たときに永遠ってかなりネガティブな概念だなと思った。確かに死は怖いなと思うが、永遠に生き続けるのはもっと大変な気がするし、なんとなく意志を持つ生命体が死ぬことはすごい健全だよなという気持ちがある。だから永遠を回避するために消滅したいという月人の願いは理解できるし、「死は救い」が成立する。

ただ、これは結構俯瞰的な視点だと思う。
現実で仲の良い人が死んだら悲しいし、死ぬこと自体は怖い。死ぬ方が健全だと思うけど、だからといって死んだらハッピーエンド!とはなかなか思えない。この作品でハッピーエンドだなあと感じたのは、同時に死ぬところだ。主人公のフォスフォフィライト以外の意思ある生命体は、フォスが祈ることによって全ての個が同じタイミングで無に帰す。しかもそのタイミングで皆がフォスに「ありがとう」と言って。この展開は執行役のフォスだけが地獄だが、あとはとても幸せに終われるなあと思った。終わるときに誰もフォスへネガティブな感情をぶつけず、感謝して終わることに救いを感じた。

フォスがその後も生き続けるのは苦しい気持ちになったけど、最終盤の展開も救いがあるなと思った。
全員を無に帰したフォスは人間と無機生命体の狭間の存在で、もはや宝石でも人間でもなく、神様のような存在になっていた。太陽が膨張して星が飲み込まれようとしたときに、フォス本来の宝石の部分だけが別の星系に移住し、それ以外の部分は太陽に飲み込まれる。ここでフォスの中にある人間の部分が完全に消滅したのだと思った。そして、別の星系に渡ったフォスの宝石の部分は最後は粉々に砕けて宇宙空間に放出され、彗星になる。ここでフォスの自我は完全に消滅した。消滅したけど無になったかは怪しくて、彗星になって生命の栄枯盛衰を観察する存在になったのかもしれない。ただ、「だれかのきぶんをあかるくしてるといいな」という石のセリフには願いが込められていて、これはある種の祈りのようにも感じた。これが祈りで、フォスもまた無に帰したのだと信じたい。だって最期は無機物たちに囲まれて、見守られながら消滅したのだから。

種の滅亡というテーマでいくと、回想内の博士のセリフあたりから老害は適切に引っ込んどけ的な思想が感じられた。読んでいて確かに同じ種があまりに長く存続し続けるのは不健全っぽいもんなあとなんとなく思った。月人が永遠の生に辟易している様子から見ても、長すぎてもダメなんだろうなあと思った。その意味では、長く存在し続けすぎた人間が消滅するのは適切な新陳代謝だったのではないだろうか。種の消滅が救いになる一つの回答を見たような気がした。

死や滅亡というどうやっても重く暗いテーマを、限りなく優しく温かく描いた作品だと思う。





余談だけど、作中では祈ることで人間を無に帰させる装置である金剛先生を筆頭に、仏教的な観念がたくさん出てくる。世界観だけではなく、全百八話であることやフォスが最初に月に滞在していた日数が四十九日であったこと、話数カウントが漢数字であることなど、作品全体に仏教がちりばめられている。仏教に疎いので仏教的世界観がどこまで作品のベースになっているのかは分からないが、仏教を掘っていくと考察が広がるのかもしれない。ただ感想以上の活動をする体力がないのでしないです、、