無知蒙昧なセンテンス

その辺の社会人が色々なものの言語化を試みる場です。

見た目重視

こんにちは。



文章って色々な場面や色々な形式で書くと思うんですけど、色々な形式があるゆえに自己を表現するための手段としての文章ってあんまり認知されてないんじゃないかなぁって思っています。このことに特別絶望してるとか残念に思っているとかではないんですけど、文章も絵や音楽に並ぶ芸術になりえるんじゃないでしょうか。ここで言う文章のイメージは小説とは少し違っていて、自己の内面を泥臭く吐き出す手段としての文章というニュアンスです。小説は自分の伝えたいことをストーリーに乗せて綺麗に運ぶコンテンツっていう認識で、自己を泥臭く吐き出すこととは少し違う気がします(そんなに小説読んできてないのでもっと色々な作品に触れると印象は変わるかもしれません)。時には音がミュージシャンの命を削って放たれるように、時には絵が計り知れない感情や主張を内包して描かれるように、文章にも沢山の、とても沢山の感情や主張、自我がぶら下がっていて、それに触れる時、紛れもなく芸術だと思うのです。

文章を書くことは、いわゆる芸術に比べてはるかに多くの人が経験したことがあって、はるかに一般的だと思います。そして、その人の個性が強く出ると思います。例えばTwitter一つ見てみても、あんなに短い文でさえ文体というものが存在していて、人によって全然違うものを作っている。「〇〇さんらしいツイート」があったり「〇〇さんと✕✕さんはツイートが似て」たり「ツイートの雰囲気で〇〇さんの別垢だって察し」たりする。なんだかすごくないですか?当たり前のことですかね?
色々と言ってきましたが、ここでは自己を吐き出す文章をやりたいなあという気持ちがあります。物書きで売りたいとかそういう感情は全くなくて、ただただ自分を表現することへの憧れが動機です。物事をかっこいいかダサいかで見る癖があって、かっこいいことはやりたいしダサいことはやりたくない。で、どんな手段にしても自分を表現することはかっこいいと感じるから、やりたいんです。それだけです。(そういえばかっこいいって意味で""ダサい""を使うこともあるなぁって思いました。言葉って難しい)



ああ、また前置きが長くなってしまいました。もうこれだけでもいいかなって思ったんですけど、本来書くつもりだったことを何一つ書いてないのでそっちを書いていきます。


肩書きの話。
肩書きってとっても分かりやすくて、人を評価する時はほぼほぼ使われますね。高学歴、便利な資格、大企業、高年収、色々な肩書きがありますけど、全部社会での地位を高めてくれる要因になります。
一方で、(あんまり社会に詳しくないんで推測ですけど、)仕事の出来ない東大卒、10年前に簿記一級、一流企業の窓際族、顎を動かすだけで年収1000万とかもいると思います。こういう人に対しては「肩書きは意味無い」「過去の栄光今は無能」「プライドだけ高い役立たず」「実力が伴ってない」といった評価が下されたりしますね。こういう評価が下される理由は単純で、肩書きに対して現在の実力が見合ってないからでしょう。
逆に、肩書きが不十分だとどうなるでしょうか。例えば学歴1つとってみても、能力が高くても中卒or高卒だと正規雇用で採用されにくい、正規雇用だとしても出世しにくい、大卒者に比べて昇給しにくい、といったデメリットがあるかと思います。極端な例だとIQ188の天才がコールセンターで働く、ってのもありましたね。

肩書きに対して能力が不十分な人。
能力に対して肩書きが不十分な人。
今の社会では前者が不当に評価され、後者が不当に評価されません。理不尽だと思いますか?まあ理不尽ですよね。それでも、基本的に肩書きで人を評価すること自体は無くならないと思うし、主流であり続けるんじゃないかと思います。

何故か?

めちゃくちゃ楽だからです。

肩書きは目に見える、じゃあ能力は?社会のとある領域で活動(活躍)するのに必要な能力がドンピシャで分かる指標なんて(少なくとも自分の知る限りは)ありません。能力って肩書きよりはるかに抽象的な概念で、抽象的なものは難しい。分かりにくい。目に見えないし、それを評価するまでに時間がかかってしまいます。
本当に知りたいのは肩書きより能力だと思います。能力が不十分な人が影で愚痴を言われるのは、肩書き=能力だと思い込んでるからです。とはいえ肩書きは基本的にある時点での能力を示すものですし、今の能力と相関もしてるはずです。だから肩書きと能力はある程度一致します。ただ完璧に相関してるわけじゃない。完璧じゃないから、"ズレ"が生じます。そして人は"ズレ"を見逃さずに叩きます。だから"ズレ"は目立ちます。

"ズレ"が目立つおかげで、肩書きと聞いて思い浮かべるイメージはあまり良くないかもしれません。それでも、肩書きは廃れないと思います。社会に通用する概念として”楽である”ということはとても強いです。しかも"ズレ"ばかりが目立ちやすいだけで、多くの場合は機能してると思いますし。理不尽を残しながらですが。

最後に一つ触れたいのですが、肩書きではなく能力そのもので人を評価できるようになったらどうでしょうか?
上で言ったような理不尽を受けて、なるべく"ズレ"を無くすように活動してる人もいるかもしれませんが、もし完全な能力評価が実現したら、きっと、とてもとても残酷で今よりもはるかに運要素の強い社会になるんじゃないでしょうか。パンドラの箱なんじゃないでしょうか。
まあ実現するかも分からないし、実現するとしてもかなり先の事だと思うので今は大した問題じゃないかもしれませんけどw


終わり。
(理不尽と残酷はどうやら最近のマイブームみたいです。)