無知蒙昧なセンテンス

その辺の社会人が色々なものの言語化を試みる場です。

形式と信仰と 2404某日

父が死んでからそれなりに月日が経ち、先日四十九日の法要を終えた。

四十九日というのは故人が極楽浄土に行けるかどうかが決まる最後の日にあたるらしく、故人が極楽浄土に行けるよう遺族が供養する儀式にあたるらしい。
でも浄土真宗の場合は往生即成仏といって、亡くなったらすぐ極楽浄土に行けるという考え方なので、故人に感謝の気持ちを伝えるという意味合いに変わるらしい。
ググるとこんなことが書いてある。母は「四十九日までは現世に魂が残っていて、その魂をあの世に無事送り届ける儀式なの」と言っていた。

まあ概ね似たような感じで、四十九日が終わった今は父の魂は極楽浄土に行けたということなのだろう。


これなんぞ? というのが率直な気持ちです。

なぜ人が死んだら急に仏教徒みたいな活動をするのだろう。今までもこれからも無宗教(の予定)なのに。
今まで仏教のぶの字もない生活をしていたのに、死んだら急に「あなたのお父さんは浄土真宗大谷派です」と言われ、浄土真宗大谷派のお坊さんを指定しないといけなくなった。仏壇のご本尊様も指定のフォルムがあり、お墓も宗派によって選べるところが変わってくる(もっとも、お墓は宗派不問の場所も多いが)。仏様よ、そんな付け焼き刃の南無阿弥陀仏でええんか?
そもそも無宗教なら戒名をつける必要もないし、お経にも意味はない。それでも葬式をしたし、高い金を払って戒名をつけたし、四十九日で魂を送り届けた。浄土真宗だから最初から極楽浄土にいるっぽいが、まあそれはいい。細かいことは神様がよしなにやってくれる。

ずっとこういう違和感があるけど、まあこれも信仰なのかなという気持ちもある。
だんだんと、死んだら急に仏教の考えを適用してもいいし、自分無宗教やけどな〜と思いながら南無阿弥陀仏してもいいんじゃないかという気持ちになってきた。少し乱暴だけど、遺された側が納得して前向いて歩ければなんでもいいのよ。無宗教だけど戒名とかあった方がなんかしっくりくるし、高い金払ってお経読んでもらった方がなんかしっくりくる。逆に何もやらないとどことなく不安になるだろうし、親族が黙ってはいないだろうし。


おれは無宗教であって無信仰ではない。
そんなことを思った。