無知蒙昧なセンテンス

その辺の社会人が色々なものの言語化を試みる場です。

純粋に、楽しみたい

先日、統計検定1級の試験を受けてきた。去年落ちていたのでリベンジという形だったし、それなりに対策もしたし、そこそこ成長も感じた。だがそれを嘲笑うかのように問題傾向が変わった。??!?、という感じだった。何となくSEKIRO(いわゆる死にゲー)に似てるなと思いながら試験を終えた。この話はそのうちまたするとして、とにかく、何となくSEKIROに似てるな、という印象が妙に強く残った。


閑話休題


"楽しむ" を深めたい、という話。楽しむという感覚は自分が最も大切にしている感覚の1つで、なるべく楽しんで死ぬってのを人生の目標にしてるぐらいなんだが、じゃあ具体的に楽しむってどういうことなのかって言われると、いや楽しむってのは楽しむことでしょ()みたいな返答しかできない。人生の指標にしてるのにそれはちょっとダサいし、もうちょい深めたい。

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楽しむことを自分なりに考えてみた時、キーポイントになるのは "人からの評価" である。人からの評価というのは、賞賛だとか尊敬だとか承認だとか、自分にプラスになる評価のことだ。こういう評価は、落ち着いて考えると楽しいという感情とは違うと思う。嬉しいとか、満足とか、そういう感情だろう。ただ、たとえその行動自体は楽しくなくても人からの評価を得るためにする行動を楽しいと錯覚してしまうことがそこそこあると思う。要は、「○○すると認められて嬉しいから○○は楽しい」という錯覚である。

例えば、研究が楽しいと言っている人がいて、学会で賞を取ったり論文を投稿して認められたいという感情が先行している場合がそうだと思う。研究の作業は本当は楽しくないのに、自分の方が周りよりも論文を多く出せるから "楽しい" と思いこんだり、学会発表で賞を取れたから "楽しい" と思いこんだりする。本当はその感情は結果を "認められて満足" しているだけなのに、なぜかそこに至る過程を "楽しい" と思いこんでしまう、あるいはその過程を "楽しい" と言い聞かせてしまう。これは完全にフィクションで、想像だけで書いた例え話だが、そんなに珍しいことでもないように思える。
もう一つ例え話をすると、SNSに投稿することありきになってしまう遊びもそうだろう。とはいえ、最初からSNSに投稿することを目的にして遊ぶことはほとんどないかもしれない。自分の主観ではまず間違いなくない。ただ、SNSに投稿するのが当然になるような空気があったとするなら、その行動自体は楽しめてないんじゃないかと思う。ここで言う遊びはなんでもよくて、飲み会、旅行、クラブ、賭け事、スイーツ、アウトドア系、などなどいくらでもある。こうした遊びをするとき、遊び自体を楽しめてない自分を満たすor自分を保つためにSNSが使われると、それはもう楽しんでいるとは言えなくなるだろう。ただし例外もあって、SNSでフォロワーが増えたりバズったりすることが主目的で、それによってただ承認を満たすだけでなく自分のアカウントの規模が大きくなるとかそういうことを楽しんでいる場合は話は変わってくる。ちなみにこれも完全にフィクションで書いていて、特にモデルとして誰かを想像しているわけではない。

で、話を戻すとこういった錯覚をせずに楽しいことを楽しいと認識したいというのが自分の意思だ。人からの評価による満足感や嬉しさといった感情と、楽しいという感情をしっかり分けて認識したい。もちろん人からの評価に否定的なわけではなく、承認欲求も大切な感情だと思うし、満たされたほうがいいと思っている。ただ、人からの評価にとらわれてしまうと結果的に楽しくないことも楽しいと判断してしまう機会が増える気がしてならない。楽しくないことは楽しくないとしっかり認識したうえで、色んなことを楽しみたい。
もう一つ自分の意思として、人からの評価ありきになるような行動はしたくない。評価されたい気持ちはもちろんあるが、それが先に来ることはないようにしたい(よっぽど自尊心を回復させたいとかであれば別だが…)。まずは行動自体を楽しいと思う気持ちがあって、その上で評価されたい。この順番でありたい。極端に言ってしまえば、楽しんでないことで評価されたくはないというわがままでもある。

ではこの辺で。
今回の記事すごい書きづらかった...10日以上かかった...