無知蒙昧なセンテンス

その辺の社会人が色々なものの言語化を試みる場です。

知。-緩徐な感情について-

先日、なんとなく髪を染めた。どうせ染めるならはっきり分かるようにしたいと思い、ブリーチをしてしっかりと色を変えた。
髪を染めてから街を歩くと、前より染めてる人に注目するようになっていることに気づいた。今までは全然意識してなかったが、街には思ったより染めている人が歩いていて、思ったより色んな染め方をしていた。髪全体を染めてる人もいれば、横髪だけ染めてる人、複数色染めてる人、派手な色、地味な色...
今までは黒髪とそれ以外、みたいな世界だったのがグッと解像度が上がった。

新しく買ったコートを着て外出した日は色んなコートを着ている人がいることに気づけたし、旅行に行く日は人それぞれ色んな大きさの荷物を持っていることに気づけた。ライブに行く日はそのアーティストのグッズを身に付けている人に目が向かうようになったり、資格試験を受けに行く日は問題集や参考書を開いている人がやけに視界に入ったりした。同じ場所を歩いていても自分の状態によって見える景色が変わるのは、なんだか素敵なことだなと思う。たぶん世界はとても広くて、今自分に見えている景色はほんの一部なのだろう。そう思うとまだまだいくらでも知らない景色は広がっているし、それを知ることには際限がない。


閑話休題
知ることが楽しいと最初に自覚したのは大学3年のころだった。全然興味の湧かない専門の授業を聞かずに統計の勉強をしているとき、あ、なんかこれいいなと思った。ほどなくして、その 'なんか' は勉強して得たものが頭に残る心地よさだと気づいた。今までも受験や試験のために勉強はしてきたしもちろんその時も脳に積み重なっているのだが、それらを楽しいと思えなかったのは義務感でやっていたからだろう。消費だけで終わらない充実感がふわっと頭を包む後味は新鮮で、消費だけで終わるような娯楽とは別の楽しさだった。

その数年後、知る楽しさのさらなる一面を発見した。その当時はポケモン対戦(剣盾のランクバトル)をひたすらやっていて、だんだんと実力が上がっていた時期だった。やりこみの甲斐もあってシングルバトルで最終二桁順位を取ったとき、今までと何かが違うのを感じた。対戦を始めたころは分からなかったプレイングや戦術を身に付け、トップ層とマッチングするようになって彼らの思考をある程度理解できるようになった。初心者だったころとは明らかに別の景色が見えていた。ポケモン対戦の知識を積み上げること自体に特別魅力は感じなかったが、積み上げたことで新しい景色を見られるようになったことにわくわく感を覚えた。

今思い返すと、統計の勉強にも新しい景色はあった。統計の場合最初のころは基礎的なことを広く浅く学んでいたのだが、このころは先述したような充実感が主で、景色という外側の変化よりは自分の中に身についていくという内側の変化だった気がする。
ある程度基礎を理解してからやや込み入った話を学ぶと、「いろんな手法はあるけど、結局データをいかに価値のある情報に圧縮するかという学問なのかな」といった自分なりの抽象化ができるようになって、それによって学ぶ時の姿勢が変わるようになった。姿勢が変わり、同じものを学んでいても見える景色は確実に変わった。この外側の変化を実感したときに味わったのはわくわく感で、ポケモンで味わったわくわく感と似ていた。

このわくわく感はかなり研ぎ澄ませないと感じ取れなかった。ポケモンの場合、対戦で高みに行く興奮が感情として圧倒的にデカく、そもそも見える景色が変わったことを自覚しにくかった。統計の場合も、問題が解けた喜びとか理解できた満足感とかが分かりやすく目の前に鎮座しており、景色の変化はシームレスで気づきにくかった。新しい景色を見たというのはたいてい後で振り返ったときに分かることで、丁寧に思い返してふわっと実感できるようなことだ。そしてそれが分かるとじんわりと心の奥の方があったかくなる。このあったかさをわくわく感と呼んでみることにした。

知ることを通じて得られる感情はいろいろあるが、新しい景色を見た時のわくわく感は最も尊い感情のひとつだと思っているし、その感情は一時的な興奮などとは違い割とずっと心に残る。頭に知識が溜まるだけでなく心に感情が溜まるのは、間違いなく知るという活動のすごいところだ。わくわく感まで達するのはなかなか簡単ではないが、できるならここに至りたい。そして、この寒い世界で少しでも心をあったかくしていきたい。


今日も何かを知る。際限ない世界の、まだ見ぬ景色を探して。