無知蒙昧なセンテンス

その辺の社会人が色々なものの言語化を試みる場です。

新生活

ようお前ら、俺だ。俺がだれかわかるか?そうだ、俺だ。

どうもさみっとです()

ひと月と少しばかり前に購入したキーボードはすっかり手になじんだが、早くも8のキーが取れてしまい、中の基盤が丸見えになってしまった(打つことはできるので機能的には特に問題はないけど)。

 

四月といえば新生活である。一説には出会いと別れの季節とも言われている。まず自分は新学年になり、研究室に配属された。今年度からは基本的に講義はなくなり、平日は毎日研究室に通って進捗を生むというスタイルに変わった。また、研究室生活は時間的に不安定な気がし、またかねてからの自分の希望というのもあって、今月から一人暮らしを始めた。この二つの大きな変化により、今年の四月は今までの人生の中でもトップクラスに新生活の強い年となっている。この変化について、もう少し話していこうと思う。

 

研究室での生活は基本的に毎日平日の午前から登校して、その日にやることをやったら随時帰宅するという感じである。このやることというのは原則自分で設定するものであり、強制力はない。もちろん中長期的に見れば何らかの発表までに終わらせるべきタスク、みたいなのはあるしそういう意味での強制力はあるのだが、一日という単位で見れば完全に自分で決めたことを自分が納得するまでやる、ということの繰り返しである。昼休みや休憩の概念も各々が適当に設定しており、誰かに指示されるということがほとんどない。一方で昨年度までは基本的に講義形式だったのでもちろん休憩や昼休みが決まっており、曜日ごとに行く授業や実験も違う(それはそうだ)。また、自分の履修次第で登校時間は曜日ごとに異なり、一限から行く日(※)もあれば午後から登校する日もあった。ここからもわかるように、研究室生活と講義生活はその性質が全く異なるのである。つまるところ、研究室生活は時間的には制限(≒拘束力)が強まったがそこでの過ごし方の自由度が格段に上がったといえる。

(※そんなになかった)

次に、生活面だ。それまでは実家で家族と暮らしていたのだが、一人暮らしを開始した。これもかなりの変化である。端的に言ってしまえばここでも自由度が格段に上がったといえる。実家にいた頃はある程度の予定を事前に家族に伝え、急に予定が入った場合はその時に連絡する、といったある種の制約があったが一人になってしまえばそんなものはない。何時に帰ろうが何をしていようが自由である。一方で実家暮らしと比べて制約として増えるのが家事である。料理・洗濯・掃除をすべてやらなくてはならない。これは実際に暮らしてみるとなかなかに大変である。料理一つとっても、無駄が出ないように食材を購入し、その日食べるものを自分で作り、時には作り置きをし、食後は後片付けを行い、、といったことを毎日行う必要がある。他の家事も色々と気を配りながらやる必要があり、のほほんと生きていくわけにはいかない。また、足りなくなったものを補充するのも結構面倒である。つまるところ、一人暮らしもまたある種の制限が強まる代わりに自由度が格段に上がったのである。

 

これだけ急に環境が変化すると適応するのも一苦労で、実際ここのところ不眠症気味である。この状態が持続すると支障をきたしかねないので、早く適応して治ってほしいものだ…

 

少しそれたが、この新生活によって多くの自由と今までにない制限を獲得したといえる。その影響で最近は自由について考える時間が増えた。今のところ自分の中で出ている結論は、「結構制限が強くないと生きにくい」ということだ。ここでの制限は外的な制限だけでなく自ら課すような内的制限も含む。これは今までの自分の考え方を完全に覆すものとなってしまったので、何とも興味深い結論である。今まではとにかく自由を欲していたし、制限は少なければ少ないほど行動の選択肢が広がって良いと思っていた。今回自由度が(あくまで当社比だが)急上昇したことで確かにやれることが増えたのだが、やれることが増えたということはそれだけ取捨選択に迫られることが多くなったということだ。当たり前と言われれば当たり前のことなのだが、愚かなことに実際に自由を獲得するまでは気づかなかった。選択肢を増やすことは必ずしも良いことではない気がする。選ばなければいけないからだ。やれることは限られているので、何かを選んだとき、必ず何かを捨てなければならない。選択肢を多くすればするほど捨てる選択肢も多くなるわけで、多くを捨てるというのはつらい。選択肢を増やす行動も慎重にやったほうがいいと思う。実際自分の場合、選択肢を多くすることに意識を注ぎすぎていた節があり、今後この選択肢の中から多くを捨てることを考えると暗い気持ちになってしまう。制限を嫌い闇雲に自由を求めた結果制限が恋しくなるとは何とも馬鹿馬鹿しい話である。自由にとらわれていたのである。おそらく、選択して自分に制限を課すと生きるのが簡単になる代わりにまた自由が恋しくなるのだろう。自由と制限のバランスが絶妙にとれている状態はまずありえないような気がするし、もしバランスが丁度良くなったとしてもその状態がずっと続くとも思えない。おそらく今後死ぬまで、どんな状況でも自由か制限のどちらかを望みながら生きていくんだと思うし、これはもう避けられないと思う。

 

かといってそれが絶望なのかと言われると、そんなこともないんじゃないか。個人的な意見だが、人生は常に不満足な要素があり、それを満たしてはまた別の不満足が出てきて.........といういたちごっこみたいなことをやり続けるものだと思っているし、もし完全に満たされ続けたとしたら、多分クソつまんない人生になると思う。

何かの講義で聞いて妙に印象に残ってるフレーズに、

「人間は変化しか認識できない」

というものがあるのだが、かなり核心をついている気がする。嬉しいことや楽しいことはそれ以前と比較しているからこそ 嬉しい/楽しい と感じられるのだし、例えばもしずっと嬉しい状態が続いたとしたらそれが当たり前になって嬉しさを認知できなくなると思う。話を戻すと、常に自由か制限のどちらかが足りないからこそ、それを満たそうとするプラスの変化が可能になるわけで、自分にとってちょうどいい状態がずっと続いたらそれこそ無だろう(前述したようにそんな状態がいつまでも続くとは思えないが)。これは別に自由と制限の話以外にも通じる考え方だし、人生は変化があってこそ充実するのではないだろうか。

 

最後の方急に主語が大きくなってしまい、少し反省している。ちょっと飛躍しすぎたかもしれないけど満足したのでこの辺で終わろうと思う。

では。