無知蒙昧なセンテンス

その辺の社会人が色々なものの言語化を試みる場です。

世界の広さを知ったあとで

知ることについて、またやっていく。もちろん主観です。


3年前にも知ることを考えていた。そこでは新しい景色に出会うわくわく感をポジティブに書き起こした。

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それが最近はそれほどポジティブに思えなくなってきていて、今年↓の記事を書いた時なんかは怒りにも似たネガティブな気持ちが溜まっていた。

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何かに取り組んでいる時、それ自体が楽しい瞬間がある。もちろんすべてがそうなるわけはないのだが、いくらかそういうコンテンツがあって、そういうものにはある程度まとまった時間を費やせることが多い。

例えばエルデンリングはめちゃくちゃ楽しくて、うわ今日はもうこんな時間だ寝なきゃ、明日はここを探索してみよう、このボスを絶対に倒し切ろうなんてことを考える。翌日になって仕事が終わると一目散にPS4*1の電源をつけ、エルデンリングをプレイする。それがマップを一通り探索しきってボスも一通り倒しきってしまうと、少しモチベが落ち着く。もうここも行ったしな、ボスも分かってるしな、となんとなく全てを知った気になって、一目散にPS4をつけよう!とはならなくなる。でもじつは全然知らないこともあって、例えば武器とステータスを変えてもう1周するだけで全然違うボス戦の楽しみが待っているし、探索だってフラグを折って見られなかったNPCイベントを見られたりする。1周目よりも作中世界への理解度も上がるだろうし、点と点が線になることもあるだろう。もうそこに新たな景色はないと決めつけたときに、目の前は色褪せる。

先日生成AIを使って自動で議事録を書くプログラムを書いたが、これが結構筋が良くてテンションが上がった。生成AIは世界の先端に近いようなイメージがあって、かれこれ1年半くらい追いかけている。この1年半の間で意味が分からないほど進展しており、見つめ返すとあまりのスピード感にびっくりしてしまう。見つめ返さずとも、巷にはすごいペースで論文やらライブラリの新機能やらテックブログやらが増えていて、この沼にどっぷりと浸かろうものならもう一生戻ってこれないんじゃないかという勢いがある。この沼にちょっと足を突っ込んで気づけば1‐2時間が経っていることがあるのだが、この瞬間はめちゃくちゃ楽しい。必死に目を瞬かせ手で目の前の障害物を払いのけ世界の先をちょっとのぞき見しているような気分になれる。たしかにこれは楽しいのだが、不意に疲れるときがある。もうこれ以上食べきれないよ~という感じで、触れるのがしんどくなるのだ。新しい景色も一度にたくさん詰め込むと気持ち悪くなってしまう。景色と景色の間に脈絡がなく、ぶつ切りでたくさんの情報が押し寄せてくるような感じになってしまうと、キャパ越えする。そうして情報が飽和し脳が処理をやめたがるとき、その景色に魅了されなくなる。

たしかに新しい景色に出会うのは楽しいのだが、どうやらいつなんどきでも楽しめるわけではないらしい。目の前の景色が色褪せるのは新たな景色がないと決めつけたとき以外にもあって、例えばもっといろんな景色を見ている人を見つけたときなんかもそうだ。自分が見ている景色よりはるかに多くの景色に触れ、それを味わってそうな人がSNSにはいる。そう思うと周りに目が向いてしまい、キョロキョロとふらつく。そして自分の目の前の景色は急に陳腐に思えてしまう。情報が飽和せずとも、単に疲労が重なっただけでも色褪せるし、ただ少しだけ立派な社会人像に思いを馳せるだけで目の前の景色が灰色の社会に塗り替わったりする*2


先日、仕事中にこんな話をした。
「大人になると選択肢が多いから、何か1つがだめでも生きていけますよね」
「逆に学生の頃って、受験落ちたらおしまいだとか、そんな空気ありませんでした?」
「でもなんか、学生の部活とか受験とかって、思い返すと充実感あるよなあ」
「でもその当時は絶対辛いこともありましたよ」
「見えている世界が学生の頃の方が狭いからですかね? 世界が狭いから熱中したりひたむきに取り組めたりできて、振り返ると充実感がある、みたいな?」
「盲目的な方が良いってことですか?」
「ほら、付き合うかどうかの頃の恋愛とかも、盲目だから楽しいみたいなのあるじゃないすか?」

盲目、結構キーワードかもと思った。

もう‐もく〔マウ‐〕【盲目】 [名・形動] 1 目の見えないこと。 2 他のものが目に入らず、理性的な判断ができないこと。また、そのさま。「恋は盲目」 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B2%E7%9B%AE-645061


盲目という言葉は基本的に悪いニュアンスだし、最初に貼り付けた自分の記事でもネガティブな意味で使っていた。ただ、仕事中に話をしたとき必ずしもそうじゃないかもと思った。
まだ知らないと思っているとき、情報量が適切なとき、周りに目が向きすぎていないとき、知ることは往々にして楽しくて、目の前をしっかり捉えている。そしてその瞬間は、ある種盲目的と言えるかもしれない。

「自分の知っていることが内側にあり、その外側に知らないことがある。そしてそのさらに外側に、知らないとも思っていないことがある。」
これは最近聞いてしっくりきたフレーズだ。
案外、知らないことは知っていることのすぐ近くにある。

技術が発展して隙さえあれば無限に情報を浴びれるようになった。XなりYoutubeなりをちょっと開くだけでおすすめの嵐。買い物ですらこちらの商品も一緒にどうですか? と情報を浴びせられる。浴びる情報を意識的に制限しないと情報量は適切にならないような気すらしている。ただ、うまく制御して浴びる情報が減ると自然と自分に目が向くようになる気がする。自分に目が向くと、きっと近くに焦点が合うようになる。


盲目になってみませんか?


魅力的な景色は、いつだって目の前にあるのだから。

*1:まだPS5を買ってない

*2:これは別にそうでもないかもしれない