「あの人また優勝したんだって!」
「すごいよね〜!」
「やっぱ天才だなあ」
「才能だけじゃないって。きっと影ですごい努力をしてるんだよ」
「死に物狂いで努力してるんだろうなあ。絶対そんなストイックにはなれないや」
「なんかさ、あの人ってちょっと変わってるというか、天才なんだろうけど異常な感じ?がするよねえ」
何かすごいことを成し遂げた人=縮めてすごい人、に向けられる言葉は色々あります。中でも才能⇋努力の軸での言及は多いです。天才だと崇める人もいるし、努力家だと称える人もいます。1つの軸の中でも様々な度合いから発せられる言及は幅が広く、一つの分布のようなものを形成しています。
確かにそうかもしれない。すごい人を観測するとその人がどうしてすごいのか気になるし、天才or努力家というのは納得できる理由のように思えるから、多くの人が言及していてもおかしくない。
ただ最近、こうした才能だとか努力だとかいう議論にどこか違和感を感じ始めた。天才は天才だからすごい人になれたのだろうか?努力家は努力をしてきたからすごい人になれたのだろうか?
すごい人にはとんでもなくセンスが良いタイプと、とんでもなく努力ができるタイプがいます。前者はとてもセンスが良いので、少し時間を費やすだけで本質にたどり着けます。なのでメキメキと上達し、トップクラスの実力を身に付けられます。後者はとにかく継続して打ち込むことができるので、たとえ速度が遅くてもいずれ本質にたどり着くことができ、トップクラスの実力を身に付けられます。もしくは、センスと努力を両立している人もいます。むしろすごい人というのはセンスと努力を併せ持っている人が多いです。
そう言われても、やはり違和感は消えない。一見正しいように思えるのだが、机上の空論のような気がしてしまう。いくらセンスが良くても最低限努力をしなければ成し遂げられないし、いくら継続して打ち込めてもまるで無意味な努力をしていたらこれも成し遂げられないだろう。才能と努力を併せ持っていても、どこかで満足したらそこからは打ち止めだろう。才能と努力ですごい人を語ろうとすると、どうもぼんやりとしてしまうのである。
では一体、すごい人をすごい人たらしめるものは何なんですか?
ずっと考えていた。そして先日、不意に頭の中である言葉がぽつんと浮かんだ。
狂気
何かすごいことを成し遂げるためには、極めないといけないだろう。そして何かを極めるまでにはとてつもないエネルギーが必要だ。その物事への好き・楽しいといった気持ちはエネルギーになり、人をある程度の場所まで運んでくれる。同様に悔しさやライバル心もある程度の場所までもっていってくれる。だけど、膨大なエネルギーのすべてを補うことはできないと思う。どんなに才能があっても、どんなに努力ができても、(本筋からはそれるが)どんなに環境に恵まれていても、エネルギーが足りなければ成し遂げることはできない。そしてそのエネルギーたり得るのが狂気なのだ。
狂気の素は色々あるだろう。ある人にとっては極めて純粋な好意かもしれない。またある人にとっては尽きることのない怒りかもしれない。敬虔な信仰心かもしれないし、絶対に満たされることのない欲望かもしれない。人それぞれの素が狂気になり、その狂気が膨大なエネルギーとなる。
こうやって考えたらそれまで抱いていた違和感はなくなった。これが絶対正解だとまでは思わないが、少なくとも才能と努力で語るよりはしっくりくる。
じゃああなたは、すごい人は皆狂っていると考えるんですね。
狂っていると思う。ただそれは異常者だとか自我を失っているだとかとは全く異なる。ここで言う狂気はmadじゃなくてcrazyだ。何かを成すために、そして何かを為すために向けられた、膨大な力だ。
才能がないことに打ちひしがれなくていい。努力ができないことを責めなくてもいい。誰にだって、膨大な力を手にする権利はある。
"Let's go crazy"