SNSなどで何かを発信するとき、どこまで考慮すればいいのか。いや、まあ実態はあらゆるSNSというかXの話なんだけど。正確には文字数制限があって自ら削除しない限り投稿が永続で残るSNSでの話。
すごく悩ましい。年齢を重ねるにつれて発信する前に色々な事を考慮するようになっている。大学生の頃は何も考えずネタツイやと尖った意見を放り出していたし、ただ単にいいねが多くついたら嬉しいなという気持ちしかなかった。それが大学院になり社会人になりSNS歴が長くなるにつれて、確実にそういった投稿をすることが減った。誰も傷つけない(と判断した*1)ネタツイは未だにちょこちょこするが、主張をすることはかなり減った。そもそもつぶやくことが減ったというのもあるが。
色々な炎上や過激発言を見て、投稿が他者にどれくらい影響を与えるのかということを重く受け止めるようになった。結果、主張が減った。どうしても主張したいときはファクトをくっつけて、「こういう事実があるからこういうことを思ってますよ~」という感じで、事実+意見で発信するようになった。
でもね、なにもかもをすべて、すべて、すべて、取っ払って率直に言うと、クソめんどくてクソ窮屈なの。どうしようもなく思想や意見のガス抜きをしたいと思ったときに、投稿できない。ガス抜きは鍵垢やメモ帳ではできなくて、世界にふよふよと漂わせることで抜けていくような感覚があるから、やっぱり公開垢でやりたいという気持ちがある。鍵垢だとすかしっぺで、メモ帳ではそもそも何も抜けていかない。そんなお前の個人的な感覚なんか知らねえよって? そうですよね、ごめんなさい*2。
分かってるんだ、そんなエゴが罷り通らないことは分かってる*3し、だから主張をやめつつあるんだ。本当に溜まってしまった時だけ主張するんだけど、ファクトを探してきて「あくまで個人的な~」なんて枕詞をつけているうちに若干すかしっぺみたいになる。身勝手なガス抜きはもうできない。でもそれが正しいんだよね、きっとね。
「個人的な~」にも限界があって、結局そのあとの内容が過激だったらカバーしきれない。だから内容も考慮する。考慮するんだけど、限界がある。一人で世界すべてを想像なんてできないから、誰かが傷つく可能性は0にならない。それでも考慮する。むやみに風呂キャンセルとか伊能忠敬とか口に出さないようにしてるし、シンプルな罵詈雑言とか言わないし。それでも自分の中でちゃんと考慮しきったことが誰かを傷つけることなんてザラにある、あるんだよ。それで傷つきましたひどいなんて言われて、こっちも傷ついたりするんだよ。
個人が最大限考慮しているならいいのでは? なんて甘い話が成立するかな、どうかな、とちょっと考えてみるが、コンマ2秒考えただけでも成立するビジョンは1ミリも見えてこない*4。だって考慮があろうがなかろうが傷つくときは関係ないし。
別に主張じゃなくたって誰かを傷つけるネタなんかいくらでもあるし、なんならお笑いって割とそういう一面もあると思うし、なんだし、私恥ずかしんだし♪*5*6
何も言えねえよ、クソが。
誰も傷つかない世界は無理よ。無理。でも漸近はできる。誰も傷つかない世界に漸近する努力はされるべきだと思ってる。ある程度ね。最大限努力しろよって話かもしれんが、おれは疲れるからやらん。その代わり主張しない。ブラックユーモアとかしない。
でもこれって、対象がAll of the Worldだから苦しいんだよな。コンテクストが共有できるコミュニティ内で吐き出せばいいんだよ。All of the Worldを考え出すともう無理が無理無理で無理~なわけ。対象を絞ることで主張とか色んなお笑いとかが解放されるわけ。
たださ、ただあの、世界にガスを浮遊させるような、あの感覚とは違うんだよな。コミュニティを狭めるほど会話になっていくし、会話だと好き勝手にガス抜きはできないんだよ。相手がいてラリーが必要だから。やっぱりガス抜きはできない。おならの臭いを相手に嗅がせるのと空間に放つのじゃ全然違う。
ガス抜きを好き勝手にできるのがおかしくて、そもそもできないものだったのかもしれない。好き勝手世界に汚物を投げ込むのは不健全で、モラルに反していて、間違っていたのかもしれない。
でも、やっぱりどこかで思ってしまうんだよな。「この世界は、一定のコンテクストが共有されています。この世界ではここまでのお笑いが許されていて、ここまでのガス抜きも許されます。それぞれがコンテクストを前提にして発信、受信しており、コンテクスト0で入った者はまずコンテクストの理解をする必要があります。」こんな場所が、あるんじゃないかって。というか黎明期のサービスは、近しい性質を帯びていたと思うんだよな。
でっかい内輪を求めちゃうんだよ。かつてそこにあった気がするから。
もしかして最近短歌をやっている理由の一つにこれがあるのかもしれない。界隈という中程度の内輪を無意識に見出しているのかもしれない。そして、短歌をやっている他の理由として、創作というフォーマットはガス抜きの代替になりうるかもしれないという予感がある。これも感覚だけど、創作はガス抜きではない感じがする。もっとこう、中身が出ている。ただ放出するのは一緒で、その後の気分は似てる気がする。
やりようはあるのかもしれない。というかあってほしい。いや、頼む、頼むよ、頼むからあってくれよ! なあ!
以上、ここまでうんちの話は一切してません。