先日、オープンカレッジを利用して哲学の講義を受けた。
講義はカント、キルケゴール、サルトル、パスカル、ニーチェといった西洋哲学の考え方を汲みつつ、愛と孤独という具体例を出しながら自己のあり方について紐解いていくといった内容だったのだが、これがとてもよくて、受講して本当によかったと思っている。
元々哲学にはうっすらとした興味があり学生時代にサルトルの本を買ったこともあるのだが、読んでいて内容が全く分からずに挫折したことがある。社会人になってからもこのうっすらとした熱は続いていて、どうやって学ぼうかを考えていた時にちょうどオープンカレッジの存在を知ったので受けてみた。
まず、純粋な好奇心だけで講義を受けられた。そこには「気になるなあ!」という気持ちだけがあった。
これは自分にとって結構すごいことで、このスタンスで何かを学べたのは小学校の塾に通い始めた頃、大学で統計学を学び始めた頃に次いで、人生3回目の出来事である。
小4の頃から塾に通いだし、最終的に中学受験をしたのだが、通い始めた頃はただ学びたいという動機しかなかった。中学受験というと親が教育熱心で子供を塾に入れさせるイメージがそれなりにあるが(少なくとも自分が小学校の頃の都市部においてはそうだった)、自分の場合志願して塾に行っており、親はどちらかというと中学受験に後ろ向きなタイプだった。当時学校の授業が退屈で、周りの友達の会話から「どうやら塾という場所は難しいことを勉強する場所らしい」という情報を仕入れて体験授業を受けに行った。これがドンピシャ自分の退屈を解消するような密度の授業で、そこから目をキラキラさせながら通いだした。結局途中から中学受験をする路線になり、そこからは好奇心だけの学びではなく受かるための勉強にシフトした。
統計学を学びだしたときも「こんなに万能な学問が存在するのか!」と興奮しながら本を読んだ記憶がある。ただそれも徐々に、統計学を活かせる会社に就職するための勉強へと移ろっていった。
それ以外のタイミングでは、第一志望校に合格するため、定期試験で点数を取るため、単位を取るため、資格を取るため、望んだ会社に就職するため、仕事で使うため、といったふうに何らかの目的が先にあるような勉強ばかりだった。
一方で、この哲学の講義を受けるにあたっては何の目的もなかった。ただ学びたいというモチベーションだけがあって、学んだ内容をどうこうしようという意図がいっさいなかった。
これが本当に心地良くて、講義を受けながら若干うるっとするくらい感激していた。タウマゼインがあった。
内容もとても面白く自分にとって新しい発見ばかりで、ちゃんと聞いても分からないことがたくさんあり、でも納得できる部分もちゃんとあり、考えたくなる気持ちがモリモリっと芽生えてきて、気づけば3時間が過ぎていた。講義が終わった帰り道、その熱のままに講師におすすめされた書籍を買った。
具体を書きだすとかなり大変なので省くが、講義の前半は自我と自己という言葉の定義から始まり、それらが西洋の概念であること、自我が現代社会のシステムの前提として存在していること、そのうえで日本社会とのギャップがあることが述べられていた。後半では人間のあり方の本質を一番表しているのは自己であるという主張から入り、自己は孤独なものであること、自己と向き合うのは怖く自己理解は難しいものであること、向き合うのが怖いが故に社会通念を受け入れて安心したり気晴らしに走ったりすること、自己と向き合う際の孤独を唯一乗り越えうるものが愛であること、惜しみない愛を他者に与えるのには自己が豊かである必要があること、などが説明され、自己をリッチにしていくために自己と向きあい混ざりものを減らしていくその営みが生活である、として結ばれていた。
こうしてざっと書き起こしてみても分かったことと分からないことが混在しているのだが、この混在はなんだか世界がさらに広く深く続いているように感じられて嬉しい。自己と向きあう活動、孤独を受け入れる活動はなるべくサボらずにやっていきたいと思った。具体何をどうやるのかについてはすごく漠然としていて曖昧だが、例えば何もインプットしない・何もアウトプットしない時間を作りたいという気持ちが芽生えている。手っ取り早いのは瞑想とかだろうか。
講義を受けてみて、自分にとって哲学をすることは信仰のような気がした。何かを考え深く潜っていくことや、それによってぼんやりと浮かび上がる泡みたいな気づきたち。こういった行為やその結果が拠り所になっていて、考えること自体に神性が宿っているのかもしれない。
純粋な熱に目的は要らないし、やるための大義名分を探す必要もない。その火種が冷めないうちに薪をくべることに意識を捧げたい。正しく火を起こして自然と燃え尽きていくことに夢中になりたい。
そんなことを思った。